人生とは、100点を目指すものではなく、67点の自分を受け入れていくこと。

 人間として生きていて逃れられないのが、「勝ち」と「負け」との戦い。小学校や中学校に入ると学校のテストがあり、運動会やマラソン大会がある。部活動に入れば、試合に出るためのレギュラー争いや、他の強豪校との争いがある。

 

  高校に入ると、大学受験へ向けての勉強がある。大学に入ると、就職活動へ向けた争いがある。就職しても、昇進や昇給をかけた争いがある。数え上げるとキリがない。この世は競争社会で成り立っている部分があるのは仕方がない。

 

 その争いの中で、全てに勝ち続けてきた人なんているのだろうか。そんな人がいたらお目にかかりたいものだ。誰でも人生長く生きていると、「負け」に出くわす場面は一つや二つではない。世の中は「勝つ」人が脚光を浴びている裏で、何十人、何百人、何千人もの人が「負け」を味わっている。

 

 けれど、負けた人の人生がダメであるかというとそうではない。むしろ、若いうちに「負け」を味わい続けてきた人の方が最終的に「勝ち」の人生を歩むというケースも大いにあると思う。「エリート街道」を歩んできた人のほうが一回の失敗で大きく人生を狂わせてしまう場合もある。

 

 自分自身、これまでの人生では勝ったことよりも負けたことの方が多い。例えば、小学校で始めたサッカー。オーストラリアに住んでいた当時、最初に所属したチームで一番うまいのは自分だった。けれど、日本に帰国してサッカー部に入り、トレセンの選考会や強豪校との試合で、自分よりも上手いプレーヤーが現れるたびに「負け」を味わった。

 

勉強でもそう。どんなに自分が努力しても、自分より成績の良い人はいたし、上には上がいた。高校入試や大学入試でもそうだった。就職試験にいたってはほぼ全滅だった。こうして文章を書いているが、自分より文章力がある人なんて世の中にはごまんといるのだ。

 

何が言いたいかというと、人生で100点なんて取れないということ。プロ野球の世界に例えると、打者は3割を打てば名選手と言われる。10回中7回は失敗する世界。これは野球界だけじゃなく、それ以外の世界を生きている人にも言えるのではないかと思うのだ。演出家の鴻上尚史が著書「孤独と不安のレッスン」の中で以下のように述べている。

 



 


人生が、0か100かしか なければ、こんなに簡単なことはないでしょう。
けれど、人生は、26点とか46点とか67点とかで生きていくものなのです。いえ、生きていくしかないものです。
 
0は負け組で、100は勝ち組です。それは明快です。では26点は?46点は?67点は?あなたにとって何点が満足するものですか?
100点以外は全部、同じですか?100点以外は、すべて負け組ですか?
 
もし、あなたがそう考えているのなら、あなたはとても苦しい人生を送っていると、僕は思います。そういう考え方をあなたに刷り込んだのは誰ですか?厳しい親ですか?厳しい社会ですか?厳しい自己嫌悪ですか?
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 最後の問いに答えがあるとしたら、苦しい人生を送っている人に考えを刷り込んだのは、「厳しい親」であり、「厳しい社会」であり、自分に厳しい「自分自身」であるといえるだろう。

 

そのような境遇の人々が、自分自身に対してできることは、100点以外ダメという「完璧主義な自分」を捨て去り、自己採点が50点でも、70点だったとしても、その自分を認めてあげることだと思うのだ。50点しか取れなかったと嘆くのではなく、50点も取れたのだと自分を肯定することが大切なのではなんだと思う。

 

「勝ち」、「負け」にこだわり続ける生き方が悪いわけではない。ただ、「負け」や「失敗」した人を否定的にしか見ない人間が集まる世の中は生きづらさを伴うものだ。人生とは、100点と0点で評価できるような簡単なものではないと思うのである。

 



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*1:鴻上尚史著「孤独と不安のレッスン」P90~91